「1990年の少年」駄文の実験場

妄想の日々を文書化しブログに流し込む事にしました。例えるなら脳内のトイレです。

私は「サラリーマン」だが「男社会」が苦手だ

■男子が苦手

はいどうも私です。最近のブログは「自伝風」に書き進めています。ちょっと試行錯誤の段階なのですが、まとまった記事の何本か完成してきたらブログも再編成していきたいと思っています。

さて、今回のタイトルですが私の日常生活のすぐそばにある「男社会」に対する個人的な思いを書き記しておきたいと思います。

私は性別は男で、恋愛対象となる人がいたとしたらそれは女の子。もう何年か前になりますが恋愛をし、そして結婚して今にいたります。2018年には第一子が誕生しました。

妻が妊娠した時、私は心の中で「もし子供が生まれるなら女の子の方がいいなぁ」と心の中ではそう思っていました。しかしながら周りの人たちには一度もこのようなお話したことはありません。

妻が妊娠しているときによく周辺の人たちからよく質問されるのが「男の子と女の子どっちがいい?」という質問です。そんなとき私は「どっちでも良い。どっちでも大切な子ども」というようなニュアンスで回答していました。

でも実際はその言葉とは裏腹に「女の子の方が絶対にいい」という風に思っていたのです。これは悪いお父さんですね、嘘をついていたのですから。何でそんな事を考えていたのでしょうか、それは「男子」が苦手だからです。そうですね、ちんぽの付いている憎たらしいアイツ、そうそう「男子」というヤツです。

仲の良い人に対しては本音のところ「男の子は嫌いなので、女の子がいい」と答えてもよさそうなものです。しかしながらもしこれから生まれる子供が「男の子」だった場合、それはそれで育てて行かなくてはならないわけですから、子供に対して失礼にあたる言葉を言ってしまっている事になります。だから、まだ生まれる前から、そのような事を口に出してはいけないと私は思ったのです。

これから生まれる子供は親の所有物ではなく、一人の人としての人生を歩んでいくのだから、親の勝手な思い込みで性別に対して良い悪いを不用意に発言してはいけない、というような感覚でしょうか。だから男子か、女子か、というような質問を受けたときは「どっちでもいい」というような事を言っていたのです。

それでも結果的には少しだけハッピーな結果となりました。めでたく誕生した子供は「女の子」だったわけです。「ああ、これで男子と向き合う役目から逃れられる・・・」という感想を抱きました。そうですね、私は基本的に「男子」と付き合いたくないだけなのです。

「男子が苦手」という感覚は昔から漠然と心の中にあったような気がします。昔からどうも男だけの集団は苦手で、バリバリの男性ホルモンむんむんのゴリゴリ男子というのが大抵の場合、苦手でした。だから昔から私の友達というのはほとんど、声が小さく、気弱な男の子だったような気がします。

一番苦手なタイプの男子は飲み会で「ウェ~イwww」とか言いながらみんなを盛り上げてずっとひっきりなしに話をしているようなタイプです。だれも頼んでないのに勝手に場を盛り上げようとしてくるような人です。私なんかは「何をそんなに声を張り上げる必要があるのか」とか「何で自分の話ばっかりで人の話を聞かないのか」とか、そんな風に感じながら見てしまいます。

私は昔から社会的な活動をいっさい関わってこなかったような少年時代を送ってきました。周りの子供たちは「親戚の付き合い」や「子供会の活動」「少年野球」や「地域のお祭り」、そういったものを少しつずでも参加する事で自分の立ち位置や周りの人との関わり合いかた、自分の役割や、組織に所属するという事を子供ながらに学んで行ったのだと思います。

私自身の場合、自分の「親」という存在の「社会性」の希薄さというものが多少は影響しているんだと思います。そういった他人との付き合うという経験をほとんど積まないまま大人になってしまったというような感じです。

今でも地域の「少年野球」に参加している子供達や、その親御さんを見ると別世界の人を見るような感じに思えてしまいます。そして、監督に理不尽に怒鳴られたり、先輩にボールを取って来いと強制されたりする子供を見るたびに「彼らは幸せなのかな」と、そう思ってしまいます。わたしなんかは「何のために怒鳴られているのか」とか「何でボールを取りに行かなくてはならないのか」なんて風に考えてしまいますよね。

私が少年時代から大人になるまで、このような「何かに所属して頑張る」という状況といっさい縁が無かった世界にいたのですから私のような人間が出来上がってしまったのです。私と逆の立場の彼らから見た時、私は軟弱なクソ野郎に見えるはずです。

私自身は声を張り上げるのも苦手ですよね。体育会系のクラブ活動でもよくやる「うぉーぉーい」というのが全然できませんでしたね。いったい誰に対する何のための「うぉーぉーい」なのかも分かりませんし、「うぉーぉーい」をやられた方の立場からみたら「おお、そうか」というような感想しかなくないですか? やべ、僕もガンバろう! とか、私も頑張って「うぉーぉーい」しなきゃ!ってならないでしょう? そんな私はよくクラブ活動の先生から「お前は声が出ていない!」とよく注意されたものです。

苦手意識がありすぎて居酒屋に行ったときに、とても忙しそうな店員に対して「すみませ~ん!」というのもできませんよね。いつでも店員の人が目の前を通り過ぎるまで待ってから、ちょっと半笑いでちょこんと手を上げて合図するぐらいしかできないのです。

「すみませ~ん!」って私が言ってもまずもって店員まで声が届きませんね。私は「中森明菜」みたいにすごく「声が細い」のです。私という人間は声を張り上げて人を呼び止める事が全然できません。えっ?中森明菜をご存じない? うんうん、私も知らないからダイジョウブです(何が?)。

その声の細さ、今の歌手でいうと「倉木麻衣」かな。なんだかテレビ画面の向こう側で倉木麻衣がお話をしているみたいなんだけどぜんぜん声が聞こえてこないんです。ぜんぜんその内容が頭に入らない。タモリさんは笑顔で相づち打っているけどタモさんはちゃんと倉木麻衣の声が聞こえているのかな?、っていうそんな感じです。

倉木麻衣に対する思いはとても沢山あります。

「あれっ、いま歌ってるの?」「あれっ、そこだけ英語で歌うの?」「えっ、寺尾聡のルビーの指環カバーするの?」「えっ、京都が第二の故郷なの?」みたいな感じです。

そうですね私は「倉木麻衣」が世界の人類の中で一番好きかもしれません。あれれ、何の話をしていたんだったっけ。

まぁ年を取って行くと少しずつは自分も声を出せるようになって来ましたね。会社における自分の立場だったり、家庭における自分の役割だったりと、あとは自分自身が年齢を重ねてきたという事もあるかもしれませんね。何かしら人と関わる事で声は出せるようになって行くような気がします。

だから毎日誰とも会話せずにひとり引きこもっていたなら、いつか社会に出た時いきなり会話なんてできないわけですね。まぁあたりまえの話ですが。

それにしても最近の居酒屋でタブレット端末で注文できるのはとても便利ですよね。テクノロジーの勝利ですよ。これでもう居酒屋で「すみませ~ん!」を言う必要が無くなりました。ちょっとした「すみませんロス」ですよね。そうそう「すみロス」です、「エアロスミス」じゃないよ。


■男社会っていうのは…

さて「男社会」って何なのでしょうかね。

なんかこう、サル山でボス猿をみんなで決めて、みんなでそのリーダーに従うみたいな感じがあるじゃないですか、男子の社会って。女子もあるのかなぁ、きっとあるのでしょうね。私自身は「男子」にも「女子」にも友達がいないので、実際のところはよく分かりません。

「任侠」(にんきょう)という言葉をときどき聞いたりしますよね。最近は反社会勢力っていうのかな?

まぁ日本のサラリーマンや、日本の会社員っていうのは基本的に「上下関係」で成り立っている「男社会」でですよね。大なり小なりこの「任侠」の世界に通じるものがありそうです。なんというか、ひたすら上の人に尽くす事が美徳であるというか、ボスのためなら自分が代わりに刑務所に入る、っていう感じ。そして自分が刑務所に入るというお役目を終えたらボスに自分の立場を引き上げてもらうっていうね。

なんか、よく訓練された会社員やサラリーマンっていうのは、誰に同じ事を聞いても同じ回答が返ってくるんですよね。どこを切っても同じ顔の「金太郎あめ」みたいなものです。

これって毎日、上司と共に過ごしたり、上司の知識、行動をその傍らでよく見ていると自然に仕上がってくるものですよね。そうでない場合も、上司から直接的に叱咤激励され、飲み屋で何時間も仕事のウンチクを聞かされ、そういう風に振る舞うように段階的に飼いならされて行くものです。しまいには上司と部下で、歩き方や声の出しかた、笑うタイミグまで似て来ますよね。

これって会社がピラミッド構造だったらものすごい「強み」ですよね。社長が「右」と言えば一瞬で「部長」「課長」「係長」「主任」がみんな同じ方向に向かって進み始める。そしてその結果、組織全体のパワーを使ってとても大きな成果が得られる事になります。

そして、そしてこのような組織にありがちな事が、組織の内部からあまり反対意見を出すような人が出てきにくいというような事もありますよね。

そして同期入社の中でも早くから出世街道を突き進んでいくのは「頭が悪くて素直な人」と相場が決まっています。これが良い事か悪い事かといったら、悩みますね。「必要悪」という感じでしょうか。

ある意味「出世」した後に必要な勉強を後からさせられているのだと思います。「立場が人を作る」という言葉はそういう事だと解釈しています。つまり出世するという事は、勉強せざるを得なくなる立場に追いやられるという事なのです。

だからね、新入社員の頃から自分自身の手で勉強しているような人間っていうのは、会社に対してとにかく不満がいっぱいです。基本的に上の立場の人間がぜんぜん勉強していないのですからね。そんな人間達に「ああでもないこうでもない」と中途半端な指示を受けながら仕事をしなければならないのです。内心で「最初からちゃんと具体的な指示をしろよ」って思いながらね。

そういう不満を誰にぶつけようにもぶつける先もありません。直属の上司について「あの人は頭がちょっとアレで…」なんて感想を抱いていたところで、どの部署のどの部長も同じようなレベルの「頭」の人間が勢ぞろいしていますからね。どの顔もがん首そろえて同じような知識の人間しか揃っていませんのでね、悪趣味な「見本市」を見ているようですよ。そんな組織の中で、自分の意見を引き上げてくれる人なんで社内には存在していないわけです。

そんな感じで「頭」の良い同期たちはどんどん会社を辞めて行く事になりましたよね。私は中途半端に「会社員」を演じながらもたまに裏に隠れて「勉強」もしていましたが、けっきょくどちらも突き抜けるほどのエネルギーもなく、出世するでもなく、かといって独立するでもなく、ずっと同じ会社で勤務しているという中途半端な状況におちいってしまいました。


■最近は世の中が変わってきた

そんな感じで社会人も16年のキャリアを積んでいくと、世の中の方が逆に変わって行くものです。

私が社会人になった2003年、まず最初のお仕事は毎朝誰よりも早く出社してオフィスの全ての社員の机を拭く事から始まりました。最近ではウチの会社もやってないようですし、世の中的にも無くなって行っているんじゃないでしょうか。いわゆる、この早朝出社が給与に反映されるかされないかという所が争点になりますからね。

一昔前は、オフィスのテーブルの上にも灰皿が置いてありました。よく、当時の部長がタバコを吸っていましたよね。期待に胸を膨らませワクワクしながら入社したのに、オフィスの中は煙がモクモクしていたわけです。

今となってはビルは館内完全禁煙(一部フロアの喫煙所のみOK)という形式に落ち着きましたので、この15年ほどでかなりの部分が変わって行っているのは明らかです。

入社した最初の頃はよく上司から言われました。「女は仕事ができない」「俺は男しか上に引き上げない」というような話です。私は「ああそうなんですか、へへ」という気のない感じで返事をしておりました。

まぁ、あるよくある上司と部下のひとコマという感じだったでしょうが、おそらく私はこれが当時の日本の平均的な姿だったと思いますね。

私の感覚では、戦後の日本は高度経済成長の波にのり、どんな会社、そんな組織においてもそれなりに順調に会社が成長して行ったのだと思っています。国そのものの「GDP」が毎年上がって行くのですから、平均的にみればどんな会社であろうともいっせいに業績が上がっていくのです。

こんな状況だと、別に毎日勉強しなくてもいいし、普通に仕事しに行くだけで会社が儲かるのですからね、毎日余計な事を考える必要はなくなりますよね。もう余計な事を考えるより、毎日会社に出社するだけ、それだけOKみたいな感じなんだと思いますよ。

そんな感じで戦後何十年も過ごしてきたのですから、社長から末端社員まで「金太郎あめ」のような組織でも一定の成果を残す事ができたのです。そしてそれが「男社会」という枠組みととても相性が良くて、いまだにこのノリを捨てきれない人たちというのはかなり存在しているような気がします。

そんな時代の流れに反して最近はマイナス成長時代が訪れています。今までのやり方が通用しないにも関わらず組織の現場では「金太郎あめ」の状態が続いています。こんな組織においては上の人に逆らう事ができません。これでは新入社員の頃から染み付いた癖が悪い方向に働いてしまいます。

「品質の偽装」「業績の偽装」「報告書の偽装」このような出来事が最近はとても多いですよね。全てに共通しているのは、上司に対して「No」を突き付ける事ができなかった組織だという事です。組織の体裁を守る事だけが優先になり、根本的なサービスというものがおざなりになってしまっているというのが今の日本の会社だと思うのです。

そんな中でも少しずつですが、会社の中でも「勉強」している人が出世するようになり、社内でも理不尽な仕事の指示が飛び交うような事も少なくなってきているような気もしています。

このような小さい変化ですが、この先もどんどん変わって行って欲しいですよね。男の子も女の子も、おとなしい人も性格が明るい人も、皆がそれぞれの個性を出し合ってお互い支えあえる社会にして行きたいですよね。

そしてどんな些細な事でも言い合える関係というのも必要です。たとえ上司であろうと、ダメなものはダメと言い切る力がこれからの個人には必要です。

これからの時代は強い組織が作って行くのではありません。強い個人が時代を作るのです。私はそんな気がしています。