「1990年の少年」駄文の実験場

妄想の日々を文書化しブログに流し込む事にしました。例えるなら脳内のトイレです。

陰キャだった私の就職活動の思い出②

■私に合う職業とはいったい何なのだろうか

就職活動を控えた大学3年生だった私は、アルバイト経験を通じてある事を考えていました。

世の中の仕事は大きく3つに分かれるという事です。

何かを作る仕事。

それを運ぶ仕事。

それを売る仕事。

この3つです。

それぞれ「製造」「流通」「小売」とでも言いかえる事ができるでしょうか。

実はこのほかにも「公務員」や「教師」「弁護士」といったような職業もあるかと思われますが、そもそもノリで入った文系大学の大学生がまるまる3年間、ずっと家でゴロゴロとゲームしていただけで、そんな人間がポンっと入れるような世界なんて、そうやすやすとお目見えしないという事は重々に承知していたという事です。

それでも、前回の記事で紹介したようなかなり極端な性格を生まれ持ってしまった私が、普通に就職して普通に生活していくイメージを持つためには、自分にあった仕事をまず最初に選択しなければならないという事でしょう。

そういう風に考えたとき、まず「何かを運ぶ仕事」は自分にとってどうかだろうか。

トラックの運転手や、バスの運転手、ゴミの収集車や宅配業者、これらの仕事はまず「誰にでもできる仕事」という風に思ってしまいます。私はこの道には進みたくないと考えるようになっていました。

こういう言い方をすれば「誰にでもできる」という仕事をバカにしているのではないかと思われるかもしれませんが、今になってみると決してそのような意味ではないという事が言えるでしょう。

当時の私は友達が一人もおらず、大学に通学しながらも誰とも会わずに会話もせずに一日が終わるという事も少なくありませんでした。

つまり私は「誰にでもできる普通の大学生活」を送ることが出来なかったのです。それが出来なかったがゆえに、誰にでもできそうな仕事は逆に合わないんじゃないかと、そういう風に考えていたいう事になるのでしょう。

そして同じように「何かを売る仕事」も私の選択肢からは除外することにしました。これももちろん私の性格に合わないだろうという理由によるものです。

大学に通いながらも学校内で誰とも会話するようなことがないのに、店頭に立って「いらっしゃいませ!」と元気よく挨拶し、笑顔でお客さんと会話する、そんな事をこの私ができるとは到底思えませんでした。

だから最後の砦「何かを作る仕事」を選ばざるを得ないという事になります。消去法で自分の職業を決めざるを得ないんだ。そんな風に思っていたという事になるでしょうか。


システムエンジニアになるべく就職活動開始

大学2年生から大学3年生にかけて、先ほど紹介したような考えを持っていたからこそ、コンピュータプログラムで「何か」を作り出す仕事。この「システムエンジニア」という道に照準を合わせ「初級シスアド」と「基本情報技術者」という資格を武器に、就職活動というイベントへ突入していくことになります。

私の就職活動の成果を先に申し上げてしまいますが、2001年秋に始まり、2002年の春に内定を取得。2003年春に社会人として新生活をスタートさせたという流れに収まることができました。

後から振り返ってみれば、それなりに順調に結果がでたのかもしれません。しかしながらそれは結果が分かった後の話であり、結果がでるまでの途中の段階というものは、常に頭が重く、苦しく、目の前が真っ暗な未知の空間を突き進んでいるようなそんな気持ち悪さが常に付きまとっていました。就職活動をされたことがある方なら少しは理解していただけるかと思います。

私は当時、2001年の秋ごろより「リクナビ」というシステムに登録し、就職活動を開始しました。

兵庫県に住んでいた私は、兵庫県大阪府の範囲のなかで就職活動をすることにいたしました。

兵庫県と言えどもかなり広いですよね。私は神戸から何十キロか西の姫路市という都市に住んでいました。そして大学も神戸市内の大学に通っておりましたので、神戸より東にはほとんど出たことがありませんでした。

唯一大阪に出た事があったのですが、それは当時のチャットルームで知り合ったおっさんと、夜の梅田で一緒にお酒を飲んだという出来事だったでしょうか。

大学2年生のウブな少年と、仕事中にチャットルームで女を口説いていたようなおっさんが一緒に梅田でお酒を飲むのですから、まあまあ話は合わないわけです。それでも私は大人の嗜みの一片でも垣間見たような気がしてとても楽しい出来事であったと記憶しています。

当時20歳になったばかりの少年が初めて大阪梅田に舞い降りて、わけも分からないまま夜の街に連れ出されました。どこをどう歩いてその飲み屋までたどり着いたのかも分からないような状況です。まずは焼き鳥屋で飲み食いした後、その後はキャバクラにも連れて行ってもらいました。

キャバクラではその当時、別のお客さんの男性グループが「モーニング娘」の「LOVEマシーン」を熱唱していました。「日本の未来はWow Wow Wow Wow」という歌詞がありましたよね。当時のサラリーマンはとても気合を入れて歌っていましたね。

2019年現在、私はその日本の未来にいるわけですが、今の日本って「おっ、おう!」って感じですね。まぁ、こんなにも街中に中国人が溢れかえっているなんて、当時の状況から考えたら想像もつかない時代になっているようです。

とにもかくにも当時は、そこがキャバクラという場所か何なのかもわからないまま連れていかれたので、女の子とお酒を飲みながらお話するという経験も初めてだったのかもしれません。

そしてもその日の会計は、もちろんそのチャットルームのおっさんに支払いをしていただきました。

無料で飲み食いして、楽しい時間を過ごせて、とても貴重な経験となりましたが、その後は私も就職活動や卒業に向けた論文の作成などでバタバタとしていて、そのおっさんとはそれ以上のお付き合いにはならなかったようです。

さて、そんな大阪には就職活動を通して何度か通い詰めることになります。当時の私は「リクナビ」を通じて就職活動をしておりましたので「リクナビ」に登録されている企業しかエントリーしなかった訳です。まぁ当たり前の話をしているのですが。

私は文系の大学に通っており、教授のコネの枠が地元企業に何社かあるとかそんな環境には身をおいておりませんでした。また、サークル活動などもまったくやっていなかったため、先輩の体験談というものもまったく持ち合わせていなかったのです。

基本的には一人で孤独に、大学のある教授の言葉「これからはコンピュータの時代である」という言葉を胸に、恐る恐る就職活動という未知の海域に船を漕ぎ始めた、というわけなのです。

リクナビ」にて20社ほどエントリーしてまずは筆記試験を受けました。そのなかで15社ほどは一次面接へ進むことができたようです。

でも結果的にはだいたいこの一次面接で落とされていたようですね。

今にして思うことなのですが、たとえ国家資格を持っていたからといっても、実際に本人と話してみた印象とか、本人が放つオーラとか、声の出し方とか声のトーンとか、そんなものを総合的に見られながら面接というものは進んでいくものです。

大学で普段から誰とも話さずに家でゲームばかりしているような男が、いきなり上場企業のバリバリの社会人を相手に会話することになるのです。だいたいは瞬殺されていたんでしょうね。暗い。オーラが無い。リアクションが薄い。目を合わせない。笑わない、などなど。

ただですね、それはあくまで最初の印象であって、実際に何度か会ってお互い打ち解けてくると冗談も言うし、楽しい時間も過ごせるし、決して暗いだけではなく、面白いことを言って笑わせることだってできるんですけどね。まぁ、バリバリの社会人の立場で言えば、最初から全力でやってくれよという感じでしょうかね。

面接の醍醐味は、限られた時間でどこまでその人の芯をとらえられるかどうかという事ですよね。これはなかなか難しい話で、よっぽどの人を見る目を培っていないとわからないことではないかと思います。

そもそも大きな前提というものもあり、まず基本的な事として社会人というのはちゃんと挨拶ができて、目を見て話すことができて、ちゃんとリアクションができて、人と会話できる能力がある事。これが普通に必要な事なのです。

もしも今の私が当時の私を面接したら、たぶん落としているような気がします。それほど陰鬱なオーラに満ちていたという感じだったでしょうか。

だけどですね、大学の売店のおばちゃんに一度だけ褒められたことがあったな。「君は目がキラキラしているね」って。時にはそんな印象を他人に与えた事があったのかもしれません。A面とB面ですね、その時々でコンディションというものは変わります。

そう思うと、最近の新入社員はちゃんと出来ているよなぁと思いますよね。常にちゃんと受け答えできて、ちゃんと勉強していて、私なんかは何にもできない子でしたよね。


■結局、等身大の自分のままで大阪の企業に内定できた

このように、今にして思うと当時は何にもできない子でした。

だけど結果的には大阪のある企業に内定を頂くことができました。20社受けて1社の内定をもらい、そこで就職活動は終了という事にしました。それだけ私にとっては手ごたえがなく、掴みどころのない徒労感だけが増えていく作業でしたので。

さてと、私の何がひっかかり、何でその企業に内定できたのかという自己分析の話を始めたいと思います。

企業に内定した後、内定者懇親会みたいなイベントってありますよね。そこに参加してやはり、度肝を抜かれたというか、みんなリア充に輪をかけたようなリア充 オブ ザ リア充で、リア充100パーセントだったわけですね。私が入ってしまったことで97パーセントくらいになってしまって申し訳ないって感じで。

でも一人ひとりの性格を見ていくと、40名ほどの内定者がいたのですが、ほんとにみんな個性的でバラバラで、私がそこに入ってしまっても違和感も別に無かったという感じではありました。

これはなんというか、みんなリーダーみたいな性格の内定者ばかりだったら「船頭多くして船山に上る」みたいな感じになって、すこしは下僕キャラを入れてやろうか、みたいなノリなんじゃないかってね。そう思いますし、実際もそうでしょうね。私は下僕として内定したのです。

まぁ、ちょっと冗談っぽくなりましたが、結局のところ同じような人間ばかりが集まると組織が硬直化してしまい、柔軟性にかけていくのでしょうね。いろんな考え方、いろんな性格の人間が協調し合って、この経済社会で競争を勝ち抜いてく、そんな人事部の思惑があって、私はそこのおこぼれに引っかかる事が出来たという感じですかね。

まぁ、就職までは一人で適当に活動していたので結果的には楽なものでしたが、私のような性格の人間にとっては社会人としてスタートした後に本当の地獄というものが始まるのですよね。

それはまた別のお話という事で今回は終わりにしたいと思います。読んでいただいてありがとうございました。