「1990年の少年」駄文の実験場

妄想の日々を文書化しブログに流し込む事にしました。例えるなら脳内のトイレです。

陰キャだった私の就職活動の思い出①

■「陰キャ」なんて言葉は昔は無かった

こんにちは。今日は私が就職活動をしていた頃の事柄をまとめて行きたいと思います。

かくいう私も2003年に4年制大学を卒業してすぐに就職したので、2019年現在は16年間もの社会人生活を経てきたというわけです。

今にして思えば当時の私は相当な陰キャだったように感じられますが、当時は陰キャという言葉そのものがありませんでした。当時は、根暗(ネクラ)というような表現が主流だったように思います。

そんな自分の性格を誰よりもよく知っていたので、就職活動に関しては大学2年の時からかなり計画的に動いた上で、自分の職業を決めていました。

現在私は会社員で、システムエンジニアとして毎日生活をしています。そのような人生を歩むという事を決めたのも大学2年生から3年生にかけての事です。

大学2年生から3年生にかけて自分は何をしていたのだろうと振り返ってみると、大学に行ったり、バイトしたり、テレビを見たり、読書をしたり、ゲームをしたりという感じだったでしょうか。

このように表現するとまぁ普通の大学生のように思えますが、私に圧倒的に欠けていたものがあったとしたら、それは「友達関係」というものでしょう。

つまり、どんな時でもだいたい一人で遊んだり、一人で行動していたわけで、いわゆる「友達と一緒に遊ぶ」という事をほとんどしてこなかったという事になります。

別の表現をすると「ぼっち」だったという事にでもなるのでしょうか、かっこよくいうと「ソロ活動」をしていたという訳です。

それでも、最低限の必要な情報を入手するための友達はいたようにも思いますし、ゼミも友達と同じものを選択していたような記憶もあります。

それでいながらも、友達とのやりとりというものは事務的な連絡事項であったり、大学内のイベントの情報交換であったりと、非常にあっさりしたものとなっていたようです。

大学4年間の中で、友達の家に行ったのはたった1回きりの出来事です。

当時わたしは、人間関係をどのようにとらえ、自分はどのように感じ、どのような思いで生きていたのでしょう。

大学生から社会人へと至るその頃の気持ち、その変遷を思い出しながらまとめていきたいと思います。


■別に友達と遊びたいと思わない

「別に友達と遊びたいと思わない」

私の人生観、というかそこまで大げさなことではないですが、基本的に友達と遊びたいなぁと思うことはありません。基本的に友達関係はゼロ。ストロングゼロです。ノー・モア・フレンドです。これは社会人になった後でも変わることはありませんでした。

ではいつも何をしているのかという事になりますが、漫画を読んだり、テレビを見たり、ゲームをしたり、というくらいでしょう。大学生の時は漫画を描いてみたり、作曲をしてみたりという事もしていたように記憶していますが、そのような趣味も結局は長続きしませんでした。

しかしながら、頭の中で渦巻く様々な妄想と向き合い、消化し、飲み込む事にかなりの時間やエネルギーを使うため、人と一緒にいたり、話したり、遊んだりする事にエネルギーを回せないのではないかと、今にして思うとそう感じていたりもしています。

では頭の中で渦巻く妄想とは何でしょうか。

それは、脳内で開催されるその日の反省会であったり、脳内で繰り広げられる大河ドラマであったり、バイト先の出来事であったり、家の事であったりと様々です。

私はおそらく、子供の時から常に頭の中に妄想やドラマを繰り広げ続けるという癖があったのでしょう。

その中で最もよく出来ていたのが「学級シュミレーション」という遊びです。

「学級シュミレーション」という名前はたった今即興でつけたものですが、小学生だった頃の私が毎日寝る前に繰り広げていた脳内の遊びで、それは学校のクラスのおよそ35人程の人間の行動をおよそ30分間にわたり脳内でシュミレーションするという遊びです。

例えば、クラスのお調子者が何かを発言しそれをクラスの優等生がたしなめる会話を脳内でシュミレーションしたり、いたずらっ子がいたずらして皆から文句を言われたり、女子が男子に対して喧嘩を売ったり、そんな事を脳内で、音声セリフと映像付きのドラマのように繰り広げるという事をやっていたのです。

だいたい小学校3年生から6年生くらいまでは、脳内でこの遊びをしていたように記憶しています。

この遊びは、単にその日の出来事を思い出すという行為ではなく、まったく新しいクラスの日常を私の頭の中で新規構築しているようなものでした。つまりあの子ならこんな事を言うだろうとか、あの子の性格ならこんな返事をするだろうとか、そういう事をあまり深く考えずに、頭の中で待ち時間無しのリアルタイムに描写していたとでも言えるでしょうか。

今現在、私が仕事をしている会社で同じように、会社内の人間関係で同じことをやってみろと言われてもおそらくできないでしょう。

なぜだかわかりませんが、10歳前後の私には、毎日夜寝る前に目を閉じるだけで脳内に毎日あたらしいドラマが投影され、それを飽きずに眺めていたという事をやっており、その能力があったのでしょう。

まぁ脳内がこんな調子だから、学校に行ってもあまり自分から話しかけることもせず、一人で周りの会話を聞いてい過ごしているだけという生活を繰り返していたという事です。

特に中学校の1年生から3年生の期間は顕著で、今でいう「中二病」の全盛期だったのでしょう、学校に登校しても一日誰とも会話せずに下校するという日も、年に何回かはあったように記憶しています。

そんな私ですから、例えばその日まる一日、24時間、誰と会話をする機会が無かったとしても、毎日飽きずに楽しく暮らしていくことができているというわけです。かなり無理矢理感のある論理ですけどね。


■さあ大学だ就職だ

さて友達がほとんど居ないまま大学に進学することになります。何度か言いますが決して友達が完全にいなかったというわけではありません。学校の中では、最低限の暇をつぶすくらいの会話はしていたように思いますが、例えるな学校から家に帰ったあとや、学校が休みの日にわざわざ集合してまで一緒に遊びに行くような友人関係がまったくなかったという事になるのでしょう。

そんな私も大学に入り、最初の1か月はいわゆる「大学デビュー」を目指して明るく振舞ってみたり、女子に話しかけてみたりしていましたが、結果は続かず。結局はいつもの自分の調子で平常運転することになるのです。

部活は興味ない。サークルも興味ない。人間関係も別に要らない。という感じで大学生活はスタートいたしました。

大学に入ったとき、それは1999年の事です。私の入った学部ではノートパソコンの購入が必須になっており、学校でもいくつかの授業はノートPC必須という科目もありました。その当時は、学部全員がノートPC必須というのは珍しいほうで、同じ学部の「リア充」も「意識高い系」も「オタク」も「スポーツバカ」も、みんな同じ土俵で戦っていたという事になるでしょうか。

そしてインターネットとの出会いもあります。当時はチャットルームというネット上の会話システムがあり、毎日それに入り浸っていたという感じだったように記憶しています。

当時はインターネット回線速度はとても遅く、音楽、映像、ゲームなどはほぼインターネットでできない時代でした。かろうじてテキストデータの送受信ができるという速度でしたので、毎日チャットルームでテキストにてペチャクチャと会話するという生活を繰り返していました。

毎日大学に行って、ノートPCに学校のLANケーブルを指してチャットルームログインする。というような毎日の過ごし方をしていたので、貴重な時間や高い学費の無駄遣いをしていたという事になりますが、それも今の私を形作っている私の人生の土台です。どんなにつまらい行動、つまらない日常であってもそれを選択しているのは自分自身の手によるものです、それが嫌なら最初から友達とパーティをやっておりますことですわよねぇ。

そんな感じでちょうど西暦2000年のミレニアムに世間が沸いていた頃、その少し前に自由民主党小渕恵三内閣総理大臣になっていたとかいう頃の話です。

その頃はインターネット博覧会「通称:イン博(インパク)」という政府主導のイベントが開催され、様々な企業や団体がインターネット上に「パビリオン」を作成し公開していたという出来事がありました。

私も少しその「イン博」を閲覧していたような記憶がありますが、あまりはっきりとした思い出はありません。

それよりも、こんな自分の性格でどうやって就職していこうかという事に興味が向かっていたという状態でした。

私が大学2年から大学3年にかけて考えていた事、それは2つあったように思います。

ひとつは「人と繋がらなくてもできる仕事をしたい」という事。

もうひとつは「何かを生み出す仕事をしたい」という事。

この2つです。

最初の、人と繋がらなくてもできるというのは、今現在、結果的にはそれは実現することはありませんでしたが、当時の私の考えとしては、コンピュータプログラマであれば人と会話しなくても仕事ができるんじゃないかと考えていたように記憶しています。

ちょうど偶然にも大学で「初級システムアドミニストレータ」講座というものが開催され、少し興味があったので私も参加することにしました。

まぁ、いわゆる初級シスアドは簡単だったので一発で合格したのですが、そこからのめり込み、文系の学生であることながらも、次は「基本情報技術者」を受けるという目標を立て、なんとか在学中に合格するという事ができました。

それもこれも、私の人間関係が「アサヒスーパードライ」な性格である私が、いかにして就職という切符を手にするかという事を考えた結果、出した結論なのです。

国家資格さえ持って入れば、就職なんて余裕だろう。だって回りの人間は何もやってないじゃん。毎日大学に来て、何も考えずに適当に過ごし、酒を飲んで寝ているだけじゃん。と、そんな風に思っていた時期もありました。

そして、二つ目の「何かを生み出すこと」という点についてですが、これはクロネコヤマトでバイトをした経験から感じた事でありました。

クロネコヤマトという企業は素晴らしい企業でした(当時の感想です)。現在も私もいつも使っており、荷物を確実に届けてくれる、安心して使えるサービスです。しかしながら、私はバイトをしていて感じていたことは「これは誰にでも出来ることだな」という事でした。

こんな事を言ってしまって申し訳ないのですが、モノを右から左に動かすことで賃金をもらえるという事は素晴らしいことですが、どうしてもモノを動かすという事に関しては「誰にでもできる」という所がひっかかり、私は、このような形で就職したくないな、と思うようになっていったのです。

そこで思いついたのが、何かを生み出す仕事をしたい。という事でした。

世の中の仕事は大きく3つに分かれると思います。

何かを作る仕事。

それを運ぶ仕事。

それを売る仕事。

私は一番最初の仕事を選びたかった。ここが私の仕事を決める上での最重要事項なのでした。

ちょっと長くなってきたのでいったんCMです。
(次回に続く…)